秀808の平凡日誌

第10話 約束の丘

第10話 約束の丘

 クロウはただ黙ったままゆっくり歩いていた。

「良い天気だな」

 空を見上げると、そこには雲ひとつない青空が広がっていた。

 太陽の日差しも強く、冬とは思えないほどに暖かい。

「絶好の日、って感じだな…」

 少し暗い口調でそう言うと、クロウは人通りの少ない道を歩いていく。

「ふぅ…ちょっと疲れたな」

 数分後、クロウは病院の裏手にある小さな丘の上に立っていた。

「良い景色だな…」

 クロウはそう言うと、持っていた荷物をその場に置く。

 その丘からは一面に海を望むことができた。

『病院の裏に、綺麗な海を見ることが出来る丘を見つけた。いつかクロウさんと一緒に行きたいな…』

 クロウと狩りに出かけた日の前日の日記にルーナが書いていた場所にクロウはきていた。

「海か…そう言えば久しく行ってないな」

 クロウはまるで誰かに言い聞かせるような口調で言いながら、目の前に広がる海を眺めていた。

「ごめんな…一緒に来れなくて…」

 一緒にこの丘に来る…もしかしたら自分がルーナにしてやれる、唯一のことだったかも知れない。

 それすらしてやることが出来なかったことが、悲しかった。

「……」

 クロウはずっと海を見つめ続けていた。

 すると突然、強い風が自分の後ろから吹いてくる。

「ぅっわ…」

 そして同時に、聞き覚えのあるような声が聞こえた気がした。

 一言だけ…何度も聞いた言葉が聞こえた。

 空耳じゃない。はっきりじゃなくても、聞き間違えることのない声…

『…ありがとう…』

 クロウは声の聞こえた方に顔を向けるが、そこには何もなく、ただ空の景色が広がっているだけだった。

「ルー、ナ?」

 それでも確かに聞こえた。きっと近くにルーナがいる…クロウはそう思った。

「…別に、気にしなくても良いって」

 クロウはそう小さく笑いながら、聞こえた声に返事を返す。

 自分の横に、確かに人のいる気配がした。姿は見えなくても、誰かがいるような気がした。

「なぁ、ルーナ」

 クロウは目の前の海を眺めながら、ゆっくりと口を開く。

「俺さ…本当は、お前のところ…行きたいんだ」

 会いたいから…愛するルーナに会いたい…その思いは変わらない。

 どんな形でも良いから、ルーナに会いたかった。

 クロウがそう言うと、身に感じる視線は悲しいものへと変わる。

「…大丈夫だって…そんなことしないから…でも、お前が好きでさ…好きで…そっちで 一人ぼっちになってねぇかな…とかさ。考えてたんだ…ずっと」

 感じる視線にそう返事を返す。

 自分の手の届かない場所にルーナが行ってしまったと思うと、そのことばかりが気がかりで仕方がない。

 ルーナはずっと、独りぼっちで過ごしてきた。だから別の場所に行って、寂しがっていないかと…そう思わない日はなかった。

 だから今すぐルーナのところへ行きたい…

「でも俺…まだ生きなきゃいけない…親父のことも心配だし、もっともっと…親孝行とかもしてやりたいからさ…」

 けれどその道を選ぶことは、父親を悲しませるだけになってしまう。

 クロウには、父親を悲しませることだけは出来なかった。

 「だから俺、今すぐそっちには行けない…ごめんな。けど俺、ずっとずっと…好きだからさ…ルーナのこと、ずっと」

 どんなに愛しくても、もう顔を見ることも身体に触れることも出来ない。

 ルーナのことは、自分の頭の中の記憶と思い出だけしか残っていない。

 それでも…それでも……

『…ありがとう』

 再びそう一言だけ、声が聞こえたような気がした。

「…そんなの、気にすんなって…」

 クロウは笑いながら返事を返した。

「なぁ…ルーナ…」

 少しの沈黙の後に、クロウは何かを聞こうと声をかけようとする。

「あ、いや…なんでもない…」

 しかしその言葉を途中で止めて、再び空へと目を向ける。

「わり…もうそろそろ帰るよ。親父が今日退院するんだ」

 そう言って地面に置いた荷物を持とうとすると、自分の身体に人のぬくもりを感じた。

「…!」

 明らかに自分の後ろから、誰かに抱きしめられているような感覚。

「……ルーナ」

 クロウは自分の首もとに感じる人の手の感覚に、自分の手を合わせる。

 空を切っているはずなのに、そこには確かに感じる温かさがあった。

『大好き、です…』

「俺もだよ…」

 そうクロウが言うと身体から温かさが遠のいていき、優しい風が頬をかすめていく。

「んじゃー…またな…」

 『さよなら』とは言わない。いつになるかは解らないけれど、それでもまた会えると信じてるから…

 そう言ってクロウは荷物を持って、昇ってきた道を下って行った。



 何も…何も気にしなくていいよ…

 俺達は必ず、この空の上で出会う。

 どんなに時が経とうとも、この気持ちは揺るがない。

 この胸に刻み込んだ、君への思い…

 今度出会うそのときは、絶対にその手を…身体を…

 …全てを離さないから…

 だからその時まで、待っていて…

 必ず…必ず君を、迎えに行くから… 


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